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2009年11月18日

精神障害・自殺判断指針改定意見書

厚生労働大臣 長妻 昭 殿

 私たちは、1988年以来、社会問題となっている「過労死」問題の社会的救済のため、全国的に過労死弁護団を組織して取り組んできました。しかし、近年、過重な心理的負荷のある労働により、精神障害を発症し、そればかりか自殺して死亡し、被災者と遺家族の生活が破壊される深刻な事態(以下「過労自殺問題」という)が続いているにもかかわらず、労災補償による社会的救済の道は狭く、私たちは大きな困難に直面してきました。

 1999年9月14日に制定された「心理的負荷による精神障害等に係る業務上外の判断指針」(基発第544号)は、それ以前の原則業務外との取扱いが転換され、相当数の事案が労災認定されるようになりましたが、その後、多くの問題点が明らかとなっています。私たちは、御庁宛、2004年11月22日付で「精神障害・自殺の労災認定に関する意見書」を提出し、現行判断指針の問題点を全面的に検討し、判断指針を改定するよう意見書を提出しました。しかし、御庁は、私たちのこの意見書を無視し、今日まで、現行判断指針の見直しを一切行わず、判断指針を改定しませんでした。

 ところで、御庁は、昨年12月10日、現行判断指針の別表1の職場心理負荷評価表の「業務上の具体的出来事等に関する検証・検討を行う」との趣旨・目的で、「職場における心理的負荷評価表の見直し等に関する検討会」(以下「見直し検討会」という)を設置しました。見直し検討会は、昨年12月25日に第1回検討会を、本年2月6日に第2回検討会を、本年3月19日に第3回検討会を開催し、本年3月27日付で「職場における心理的負荷評価表の見直し等に関する検討会報告書」を採択しました。この報告書によれば、「ストレス-脆弱性」理論に基づき策定された現行判断指針は、「合理性があり、労災認定の判断基準として妥当」とし、また現行判断指針の[別表1]の職場における心理的負荷評価表によるストレスの評価方法につき、「客観的評価を前提とした判断指針の考え方やシステムは合理的で妥当である」とし、しかし「職場環境の多様化等による、業務の集中化による心理的負荷、職場でのひどいいじめによる心理的負荷など、新たな心理的負荷が生ずる事案が認識されている現状にある」とし、「職場における心理的負荷表にかかる具体的出来事の追加又は修正」等につき、報告を行いました。その見直しは、職場における心理的負荷表の現行31項目から43項目に増加し、平均強度「III」の出来事として「ひどいいやがらせ、いじめ、又暴行を受けた」を一つ、平均強度「II」の出来事として「違法行為を強要された」、「自分の関係する仕事で多額の損失を出した」、「職場で顧客や取引先から無理な注文を受けた」、「達成困難なノルマを課された、「顧客や取引先からクレームを受けた」、「複数名で担当していた業務を一人で担当するようになった」の六つの出来事を追加し、「部下とトラブルがあった」出来事一つを「I」から「II」に修正し、平均強度「1.」の出来事として六つの出来事を追加することが主たるものです。そして、この報告書に基づき、本年4月6日に判断指針の一部改正が行われました(基発第0406001号)。

 しかし、今回の職場心理負荷評価表における「業務上の具体的出来事等に関する検証・検討」による現行判断指針の見直しでは、今日の深刻な過労自殺問題に適切に対応し、適正な労災補償を実施することはできず、制定後10年を経過しようとしている中で明らかとなった問題点につき、現行判断指針は、全面的に見直す必要があると考えます。

 そこで、私たちは、従前御庁に提出した意見書を再度検討し、現行判断指針を全面的に見直し、今日の深刻な過労自殺問題に適切に対応し、適正な労災補償を実施できる判断指針を改定するよう下記のとおり意見を述べる次第です。

〒113-0033 東京都文京区本郷2-27-17
  過労死弁護団全国連絡会議  代表幹事 岡村 親宜
                同    水野 幹男
                同    松丸 正


第1 精神障害発症前に従事していた業務で遭遇した事件的出来事(ライフイべント)による「急性の心理的負荷」と相当因果関係の認められる精神障害の発症及びその精神障害による自殺のみを労災補償の対象とし、精神障害を発症し得る業務による心理的負荷と認定する評価基準を平均人基準とする現行判断指針を「基本的考え方」を改定し、精神障害発症・増悪前に従事していた「慢性及び急性の心理的負荷」と相当因果関係の認められる精神障害の発症・増悪及びその精神障害による自殺を労災補償の対象と認め、精神障害を発症・増悪し得る心理的負荷か否かにつき、同種労働者の中でその性格傾向が最も脆弱である者を基準に評価するものとすること

1 現行判断指針の問題点

 現行判断指針制定時に設置された労働省の「精神障害等の労災認定に係る専門検討会」は、1999年7月29日付報告書を発表し、その「検討概要」において、職場における心理的負荷として、「ある出来事が起きたことが明確に認識される事実に係る」「急性ストレス」のみならず、「長時間労働、長く続く多忙、単調な孤独な繰り返し作業、単身赴任、交替勤務などのように持続的であり、継続される状況から生じる」「慢性ストレス」が存在していることを認め、業務による事件的出来事(ライフイべント)による「急性ストレス」の他に、「慢性ストレス」が精神障害発症の原因(環境からくるストレス)となることを認めながら、「検討結果」においては、精神障害の発症 原因としては、事件的出来事(ライフイベント)による急性の心理的負荷だけを取り上げ、「慢性の心理的負荷」を取り上げなかった。

 その結果、現行判断指針では、発症前6か月間に、被災労働者が[別表1]の日常の労働生活でまれにしか遭遇しない非日常的な事件的出来事に遭遇し、しかもその事件的出来事による心理的負荷の強度が指針のIIないしIIIと評価され、かつ総合評価で「強」と評価されない限り、「業務上」とは認定されないとされている。

 また、現行判断指針は、その「基本的考え方」において、「精神障害の業務上外の判断に当たり、「当該精神障害の発病に関与したと認められる業務による心理的負荷の強度の評価が重要である」とし、「その際、労災補償制度の性格上、本人がその心理的負荷の原因となった出来事をどう受け止めたかではなく、多くの人々が一般的にはどう受け止めたかという客観的基準(平均人基準説)によって評価する必要がある」とし、判断要件として、平均人基準説により、「発病前6か月の間に客観的に当該精神障害を発病するおそれのある業務による強い心理的負荷が認められること」が必要とした。

 しかし、現行判断指針によれば、発症前6か月の期間に[別表1]の総合評価で、遭遇した出来事が「強」と認定されなければ、「業務以外の心理的負荷や個体側要因に特に問題がみられないときでも業務外とな」り、それは「『ストレス-脆弱性』理論によって形に現れない脆弱性という個体要因が本当の原因であると理解され」こととなってしまうが、これは、根本的に問題である。

2 トヨタ自動車事件・名古屋高裁平成15年7月8日判決

 トヨタ自動車事件・名古屋高裁平成15年7月8日判決(労働判例856号)は、自動車の設計業務に従事していた被災者(係長)が、恒常的な時間外労働や残業規制による過密労働により、相当程度の心身的負荷を受けて精神的、肉体的疲労を蓄積していたところ、7月以降2車種の出図期限が重なったことにより、過重、過密な業務及び8月末期限の出図の遅れによる心理的負荷を受けていたものであるが、7月初旬頃労働組合の職場委員長に就任するよう要請され、何度も断ったが断りきれず同月下旬頃就任の承諾したものの、同委員長に就任することによる不安、焦燥の急性の心理的負荷が加わり、7月下旬ないし8月上旬頃うつ病を発症したが、8月初旬の過重、過密な業務及び出図期限の再延長による心理的負荷を受け、同月12日から同月17日までの夏休み期間中いくぶん疲労を回復したものの、夏休み明け後の開発プロジェクトの作業日程調整及び8月20日の南アフリカ共和国への16日間の出張命令による心理的負荷を受け、その後うつ病の症状を急激に悪化させ、同月26日、ビルから飛び降り自殺した事案につき、被災者のうつ病の発症と自殺には業務起因性が認められるとし、これを否定した豊田労基署長の遺族補償等不支給処分は違法とした。

 この事案で問題となった発症前の心理的負荷は、被災者が7月以降に従事した2車種の出図期限が重なったことによる過密な設計業務及びこの2車種の8月末期限の出図の遅れにより受けた慢性の心理的負荷と、7月下旬頃職場委員長就任を承諾したことによる不安、焦燥の急性の心理的負荷の二つであり、これらの二つの心理的負荷が発症の原因となり得る心理的負荷と認められるか否かであった。そして問題となった発症後の心理的負荷は、夏休み明け後の開発プロジェクトの作業日程調整による慢性の心理的負荷と及び8月20日の南アリカ共和国への出張命令により受けた急性心理的負荷の二つであり、これらの心理的負荷が被災者のうつ病を増悪させる原因となり得る心理的負荷と認められるか否かであった。

 厚生労働省は、この裁判において、指針制定時検討会座長の原田憲一らの医学意見書を提出し現行判断指針を適用すると、この事案は、(1)アジアカー、ライトエースの2車種の8月末出図期限、(2)職場委員長の就任承諾、(3)6か月後の南アフリカへの出張命令という三つの事件的出来事による心理的負荷が問題となるにすぎないとした。そして、(1)の出来事については、指針別表1の(1)の具体的出来事のいずれにも合致せず、どの出来事に近いかを類推すると、別表1の「ノルマが達成できなかった」に近い出来事となり、平均的心理負荷の強度は「II」であり、修正すべき視点で検討しても、作業自体は順調に進み、結果として完成をみており、期限付の作業は会社活動では日常的なことであるから、心理的負荷強度を修正する必要はなく、その心理的負荷強度は「I」に近い「II」と評価されるとした。そして前記(3)の出来事は、「組合業務は本来の業務とはいえないことから、業務による心理的負荷と評価するのは適切でない」とした。さらに、前記(3)の出来事は、「6か月先のことであり、被災者も承知しており、同人のキャリアからみて、特別過重な負荷と評価すべきではない」とした。その結果、この意見書は、発症の要因となる業務以外の心理的負荷は認められず、また、発症の要因と認められる個体側要因も認められないと認定しながら、「精神医学的経験則上、被災者の心理面の脆弱性が本件うつ病エピソードの発病の主な役割を果たした」ものであるとした。

 これに対し、名古屋高裁判決は、発症前被災者が7月以降に従事した2車種の出図期限が重なったことによる過密な設計業務及びこの2車種の8月末期限の出図の遅れにより受けた慢性の心理的負荷につき、トヨタ自動車においては「設計業務の遅れは他の部署の日程にも大きな影響を及ぼすため、設計図の出図期限は遵守すべきものであるところ、先行試作設計の段階では」「出図期限の延期が認められたとしても、それは」「やむを得ず認められたものにすぎず、第1係長を統括する係長としてはマイナス評価を受けるおそれがあり、その後第1次試作設計の出図期限は遵守しなければならないのである」との理由で「極めて強い心理的負荷」であると認定した。

 また、名古屋高裁判決は、7月下旬頃職場委員長就任を承諾したことによる不安、焦燥の心理的負荷につき、被災者が「悩んでいたのは、職場委員長の活動自体による不安ではなく、組合活動に時間と労力を取られることによって業務に当てる時間と労力が少なくなり、設計図の出図期限が遵 守出来なくなることに対する心配(不安、焦燥)であ」るから「業務上の出来事として取扱うのが相当」とし、その負荷は「当時も過重・過密な労働に従事し、さらに9月以降も過重・過密な労働に従事することの予定されていた被災者に対し、さらに強い心理的負荷を与えたと認められる」と認定した。

 つぎに名古屋高裁判決は、夏休み明け後の開発プロジェクトの作業日程調整による心理的負荷につき、夏休み明け後の「8月18日から同月25日まで、被災者は、ライトエーストラックのコスト低減の問題検討、開発プロジェクトの作業日程調整及びライトエーストラックのリーフスプリング問題等の業務を遂行し、同月初旬に引き続き多忙であった」が、「そのような状況の下で、開発プロジェクトの作業日程調整は、被災者に対して、強い心理的負荷を与えた」と認定した。そして前記南アフリカ共和国出張命令により受けた急性の心理的負荷につき、本件出張命令は「6か月も先のことであったが、その予定日がアジアカーとライトエーストラックの第1次試作設計の出図時期と重なって」おり、被災者が「本件出張により上記出図時期が遵守できなくなるのではないかとの不安、焦燥を抱いたことは」「十分理解可能であるから、本件出張命令は、被災者に対し、強い心理的負荷を与え」た認められると認定した。

 その上で、同判決は、被災者の「本件うつ病は、上記の、過重、過密な業務及び職場委員長への就任内定による心理的負荷と被災者のうつ病親和的性格(ただし、通常人の正常な範囲を逸脱するものではない)が相乗的に影響し合って発症した」ものであり、さらにその後の開発プロジェクトの作業日程調整及び本件出張命令(による心理的負荷)が「本件うつ病を急激に悪化させ、被災者は、本件うつ病の希死念慮の下に発作的に自殺したものと認めるのが相当であ」ると認定し、被災者の従事していた「業務と本件うつ病との間には相当因果関係を肯定することができ、本件自殺は、本件うつ病の症状としては発現したものである」と認定したのである。

 そして、この事件は、行政機関は上告受理申立をせず、確定した。

 この確定した司法判断に照らせば、発症前の事件的出来事による急性の心理的負荷を発症原因とする精神障害及びその精神障害による自殺を補償対象とする現行判断指針には、根本的に問題があることが明らかというべきである。

3 発病後の心理的負荷による増悪

 これに対し、判断指針は、発病前の業務による心理的負荷を対象としており、発病後の心理的負荷は考慮していない。

 精神医学上、軽症うつ病であっても自殺念慮は生じ得る。しかし、自殺事案において、何らかの心理的負荷(業務に限らない)によって精神障害を発病した労働者が、発病時点では正常な認識、行為選択能力が阻害されておらず、自殺を思いとどまる精神的な抑制力も阻害されていなかったが、発病後の業務による心理的負荷を受けて自殺を図った場合には、発病後の負荷により、精神障害が、正常な認識、行為選択能力が著しく阻害され、又は自殺を思いとどまる精神的な抑制力が著しく阻害されている状態にまで進行したと評価できるのであり、法的概念としての因果関係の判断に当たって、これを「うつ病の増悪」と評価したとしても、ある特定の事実(労働者が業務上の心理的負荷を受けたこと)が特定の結果(うつ病が増悪したこと)の発生を招来した関係を是認し得る高度の蓋然性を証明することになるのであるから、法的判断として正当である。

 日本ヘルス事件・大阪地裁平成19年11月12日判決(労働判例958号)は、「業務上の負荷によりうつ病を発症(ただし、その診断可能時点は必ずしも特定が容易とは言い難い。)した者が、未だ完全に行為選択能力や自殺を思いとどまる抑制力を失っていない状態において、改めて、社会通念上、うつ病を増悪させる程の業務上の負荷(通常人であっても、うつ病を発症する程度の心理的負荷)を受けた結果、希死念慮を高め、自殺を図った場合、相当因果関係を認めるのが合理的である場合が存する」と判示しており、この理を相当として認めているのである。

 前記のとおり、トヨタ自動車事件・名古屋高裁判決は、うつ病の「増悪」も「発病」と同じ相当因果関係論で業務起因性を判断しており、海外出張による影響に対する不安、開発プロジェクトの作業日程調整は発症後のうつ病の増悪事由と判断した。同旨の裁判例は、九州カネライト事件・福岡高裁平成19年5月7日判決(労働判例943号)などがある。

 本年に入って言い渡されたノヴァスペースデザイン事件・東京地裁平成21年3月18日判決は、「業務起因性を検討するに当たり、精神障害発症後の業務による心理的負荷を全く考慮しないのは相当でなく、精神障害発症による能力低下や易疲労性の増大等の精神障害発症後の状態を考慮に入れつつ、業務起因性を検討するのが相当である」と精神障害発病後の業務起因性について一般論を判示しており、近時の四国化工機工業事件・高松地裁平成21年2月9日判決、小田急レストランシステム事件・東京地裁平成21年5月20日判決及び日本トランスシティ事件・名古屋地裁平成21年5月28日判決も精神障害発病後の心理的負荷を考慮しているのであって、これが近時の裁判例の主流になっている。

 このように裁判例は、精神障害の発病について業務起因性が認められるか否かを問わず、精神障害発病後の業務による心理的負荷により精神障害が「増悪」した場合の業務起因性を認めているものである。

 また、うつ病の生存事案であり、解雇の効力、未払賃金請求権や安全配慮義務違反等に基づく損害賠償責任が争われた、東芝事件・東京地裁平成20年4月22日判決(労働判例965号)は、「原告が平成13年4月にうつ病を発症し、同年8月ころまでに症状が増悪していったのは、被告が、原告の業務の遂行に伴う疲労や心理的負荷等が過度に蓄積して心身の健康を損なうことがないような配慮をしない債務不履行によるものであるということができる」と判示しており、自殺に至らなかった精神障害事案において明確に発症後の業務上の心理的負荷による症状増悪を認めている。デンソー(トヨタ自動車)事件・名古屋地裁平成20年10月30日判決(労働判例978号)も同旨である。

 以上の裁判例の傾向からすれば、発病後の業務による心理的負荷を考慮しない判断指針の「基本的考え方」は速やかに改定されるべきである。

4 慢性ストレスの評価

 今日、医学上、精神障害は、素因、環境因(身体因、心因)の複数の病因が関与して発症しており、環境からの心理的負荷と個体側の反応性、脆弱性との相関関係で精神破綻が生じて発症する(「ストレス-脆弱性」理論)と理解されているが、精神障害の発症原因となる「環境からくるストレス」には、その人生でたまにしか遭遇しない事件的出来事(ライフイベント)による急性の心理的負荷よりも、むしろ日常生活において生ずる混乱や落ち込みの長期間の日常的煩わしさ(ディリー・ハッスルズ)である持続的な「慢性の心理的負荷」が精神障害の発症・増悪に作用しているとされているのである。

 そして、現行判断指針制定時の検討会座長の原田憲一元東京大学教授自身、指針制定後、「ライフイベント(急性ストレス)より持続的、日常的なストレス(慢性ストレス)の方が精神的健康にはるかに害があることは、Bleuler,E.を挙げるまでもなく精神医学の常識である」と指摘し(「精神に関わる労災認定の考え方と実際上の問題点」精神科治療学22(1);69-75、2007)、また、「職業連関の心理的ストレスとして検討会が取り上げた出来事は急性、1回性のストレスが多い。Bleulerがその精神医学教科書の中で強調しているように、精神発達に悪影響を与えるのは1回性の出来事よりも持続的な慢性の感情緊張である。慢性・持続性の日常的なストレスの方がしばしば精神健康に有害であることは、Lazarusや夏目(夏目誠「ストレス強度と対応」産業精神保健2000:8:17-23)が指摘している」と述べ、「慢性・持続性ストレス」は「今後に残されている問題」であるとしているところである(原田憲「精神障害の労災認定」産業精神保健8(4):275-279:2000)。

 また、トヨタ自動車事件・名古屋高裁判決、九州カネライト事件・福岡高裁判決、中部電力事件・名古屋高裁平成19年10月31日判決(労働判例954号)など多くの裁判例は、出来事に伴う変化の場面で慢性ストレスを評価しているのではなく、出来事発生以前から発生後、さらには精神障害発病後に至るまで、あらゆる段階において慢性ストレスを評価しているものである。

 とすれば、判断指針が出来事に伴う変化の場面で慢性ストレスを評価しているとしても、そうであるからといって、判断指針の欠陥を修補するものではない。

 したがって、精神障害の発症原因として、「急性の心理的負荷」だけを発症原因と認め、この発症前に従事していた業務により遭遇した「急性の心理的負荷」と相当因果関係のある精神障害の発症及びその精神障害による自殺についてのみ「業務上」の疾病及び「業務上」の死亡と取り扱うとし、労働者が日常の労働生活により「慢性の心理的負荷」と相当因果関係のある精神障害の発症・増悪及びその精神障害による自殺を「業務上」の疾病及び「業務上」の死亡と認めない現行判断指針は、今日の精神医学の常識に反しており、現行判断指針のこの「基本的考え方」を改定し、前記精神障害発症の機序を前提とし、被災者が精神障害発症・増悪の原因となる業務による「慢性及び急性の心理的負荷」と被災者の当該精神障害の発症・増悪及び当該精神障害による自殺との間には相当因果関係が認められれぱ、「業務上」の疾病及び「業務上」の死亡と取り扱うことを明確に定めるのが相当というべきである。

5 過重負荷評価基準

 トヨタ自動車事件・名古屋地裁平成13年6月18日判決(労働判例814号)は、過重負荷評価基準を「同種労働者(職種、職場における地位や年齢、経験等が類似する者で、業務の軽減措置を受けることなく日常業務を遂行できる健康状態にある者)の中でその性格傾向が最も脆弱である者(ただし、同種労働者の性格傾向の多様さとして通常想定される範囲内の者)をと」し、「同種労働者の中でその性格傾向が最も脆弱である者を基準とするということは、被災労働者の性格傾向が同種労働者の性格傾向の多様さとして通常想定される範囲を外れるものでない限り、当該被災労働者を基準と」するのが相当とした(判決書104頁。平均的労働者最下限基準説)。この控訴審である名古屋高裁判決は、「報告書を取りまとめた委員会の座長を務めた原田憲一医師の当審における供述及び陳述書(乙第25号証)によれば、通常想定される範囲の同種労働者の中で最も脆弱な者を基準にするという考え方は、専門検討会や判断指針と共通するものであると認められる。さらに、控訴人(豊田労基署長)の主張する平均人基準説も、平均人としてどのような者を想定しているのかが必ずしも明らかではなく、平均という言葉が全体の2分の1程度の水準を意味するものと理解することも可能ではあるが、判断指針と同程度の水準を想定しているのであれば、上記(1)の見解(地裁判決)と大差はないものと考えられる」(判決書50頁)と判示し、実質的に原審名古屋地裁判決が判示した基準を是認したものである。同旨の裁判例は、中部電力事件・名古屋地裁平成18年5月17日判決(労働判例918号)、四国化工機工業事件・高松地裁判決などがある。

 また、中部電力事件・名古屋高裁判決は、同種労働者ないし平均的労働者を基準にしながらも、その労働者群の中に「相対的に適応能力、ストレス適所能力の低いものも含む」と判示しており、また、九州カネライト事件・福岡高裁判決は、「同種の労働者という概念は、通常想定される労働者の多様さの範囲において、心理的負荷となり得る出来事等の受け止め方に幅があることを前提とした概念であることを考慮する必要がある」と判示し、しかもこの福岡高裁判決は、「原田意見書が『通常想定される範囲の同種労働者の中で脆弱な者を含んでの基準』が正確である旨を指摘するとおり、平均的労働者の範囲にも幅があり、当該労働者の個体側要因も多様で、その脆弱性も雇用関係のもとで築かれる場合もあるから、相対的な比較によりその軽重あるいは因果関係の存在が判断されるのが相当な場合もあるというべきである」と原審福岡地裁判決(労働判例916号)の判示を補充している。これらの裁判例の判示からすれば、平均的労働者最下限基準説と異ならないと考えられる。

 ところで、最高裁判所事務総局が発行した、労働関係民事行政裁判資料第41号「労働者災害補償関係事件執務資料」(1997年3月。以下「執務資料」という。)は、平均的な労働者、すなわち通常の勤務に就くことが期待されている者を基準とするという見解を紹介している。執務資料によれば、「通常の勤務に就くことが期待されている者とは、完全な健康体の者のほかに、基礎疾病を有するものの勤務の軽減を要せず通常の勤務に就き得る者、いわば平均的労働者の最下限の者も含む」という。そして、「この考え方によると、基礎疾病を有しながら通常の勤務に就いている者にとって、その基礎疾病を有意に悪化させる可能性のある業務は危険を内在化したものであり、そのような業務に就いたことにより基礎疾病が有意に悪化した場合には、業務とその結果との間には相当因果関係を肯定し得ることとなる。すなわち、平均的労働者の範ちゅうに属する者については、条件関係さえ肯定できれば、業務起因性を肯定し得ることにな」る。また、「平均的労働者の範ちゅうに属さない者(例えば、基礎疾病を有するために勤務の制限を受けている者)も、一切救済されないわけではなく、その従事した業務が平均的労働者の最下限の者にとっても危険と評価し得るものであり、かつ、条件関係が肯定できれば、相当因果関係を認めることができるものである」(9頁)。

 トヨタ自動車事件・名古屋地裁判決を始めとする前記各裁判例及び執務資料の見解(平均的労働者最下限基準説)を採用するのであれば、精神障害発病により勤務制限を受けている労働者の救済はある程度可能となる。

 これに対し、判断指針は平均人を基準としており、以上の各判決により国側が多数敗訴しているにもかかわらず、厚生労働省はこの説に固執している。

 そればかりか、トヨタ自動車事件・名古屋高裁判決が言い渡されて国側の敗訴が確定した直後の2003年7月31日、厚生労働省労働基準局労災補償部補償課長名義で「精神障害等事案の高裁判決に係る留意事項について」と題する通知(基労補第0731001号)を発した。この通知は、名古屋高裁判決が「判断指針の合理性を認め、また、心理的負荷の強度の評価についても、本人を基準として判断する考えを明確に否定するとともに、最も脆弱である者を基準として判断すべきものとはしていないと理解でき、国の主張が容れられたものとなっている」と評している。しかしながら、名古屋高裁判決は、判断指針の「一定の合理性」を認めながらも、「当該労働者が置かれた具体的な立場や状況などを十分斟酌して適正に心理的負荷の強度を評価するに足りるだけの明確な基準になっているとするには、いまだ十分とはいえず、うつ病の業務起因性が争われた訴訟において、この基準のみをもって判断するのが相当であるとまではいえない」と判示しているのであり、単純に「判断指針の合理性を認め」たという評価は誤りであり、名古屋高裁判決が平均的労働者最下限基準説を否定したというのも前記のとおり誤りである。

 しかも、九州カネライト事件・福岡高裁判決は、「被告の主張は、同種労働者の多様性の一つとして太郎が有する属性、性格を捨象し、同種労働者の範囲を限定的に解する点において前提を誤っている上、複数の心理的負荷の要因の総合的な検討も十分でないから、採用できない」と、判断指針の過重負荷評価基準を批判しているところである。

 このように厚生労働省は、トヨタ自動車事件・名古屋高裁判決を我田引水に解釈し、過重負荷評価基準を厳格にして被災労働者及びその遺族の救済の範囲を狭めている。

 しかしながら、平均人に「ストレス耐性の低い者」を含めるとしても、前掲原田・精神科治療学22巻1号が、「『平均人』とは、通常想定される多様性の範囲内で、ストレスに強い人も弱い人も含めた労働者群を指す」と解説するとおり、平均人には最下限の者も含むとして幅のあるものとして捉えざるを得ないのである。

6 被災労働者本人の立場や状況の考慮

 トヨタ自動車事件・名古屋地裁判決は、「亡太郎にはこれまでの生活史を通じて社会適応状況に特別の問題はなく、うつ病親和的な性格ではあったが、正常人の通常の範囲を逸脱しているものではなく、模範的で優秀な技術者であったのであるから、亡太郎の性格傾向は、同種労働者の性格傾向の多様さとして通常想定される範囲を外れるものでなかったと認められる」から、「本件においては、亡太郎を基準として、当該業務がうつ病を発症させる危険性があったか否かを判断すればよいことになる」と判示しており、「限りなく本人基準に近い判断を示している」と評されている。また、この控訴審の名古屋高裁判決は、このような判示をしていないものの、「ストレスの性質上、本人が置かれた立場や状況を充分斟酌して出来事のもつ意味合いを把握した上で、ストレスの強度を客観的見地から評価することが必要であり、本件においては、亡太郎が従事していた業務が、自動車製造における日本のトップ企業において、内容が高度で専門的であり、かつ、生産効率を重視した会社の方針に基づき高い労働密度の業務であると認められる中で、いわゆる会社人間として仕事優先の生活をして、第1係係長という中間管理職として恒常的に時間外労働を行ってきた実情を踏まえて判断する必要がある」と判示し、被災労働者本人の有する実情を考慮している。中部電力事件・名古屋高裁判決も同旨である。

 「『人』は本来的に多様であるから、精神障害の労災認定において客観性を強調することは具体的妥当性を逸することになる」(石田信平「過労自殺の業務上外認定について」(同志社法学57巻7号)144頁)という指摘は、裁判例の考え方の背景にあるものといえる。

 したがって、判断指針は、本人が置かれた立場や状況を充分斟酌して出来事のもつ意味合いを把握した上で業務による心理的負荷を評価するよう改定すべきである。

 これに対し、前出の補償課長通知は、判断指針に「既に盛り込まれている」と述べている。しかし、「心理的負荷の強度を修正する視点」は当該出来事自体の程度やそれに付随又は関連する事項に着眼するというにすぎず、トヨタ自動車事件・名古屋高裁判決が判示するような、必ずしも「出来事」とまでは評価されないが慢性ストレスを生み出す企業体質、業務・職種・役位の内容や性質、就労実態などの実質を反映されるものとはなっていない。厚生労働省は、名古屋高裁判決が提起した判断指針の問題点を正解していないのであり、改定の必要性があるのである。

 したがって、精神障害の発症・増悪に関与したと認められる慢性及び急性の心理的負荷が、精神障害を発症・増悪し得る程度の心理的負荷であるか否かの評価基準は、トヨタ自動車事件・名古屋高裁判決が判示しているとおり、「ストレスの性質上、本人の置かれた立場や状況を充分斟酌して」「ストレスの強度を客観的見地から評価することが必要」であり、それは、被災労働者とその遺家族の人間に値する生活を充たすための必要最小限度の法定補償を迅速、公平に行うことを目的とする労災補償制度の目的に照らし、「同種労働者(職種、職場における地位や年齢、経験等が類似する者で、業務の軽減措置を受けることなく日常業務を遂行できる健康状態にある者)の中でその性格傾向が最も脆弱である者(ただし、同種労働者の性格傾向の多様さとして通常想定される範囲内の者)を基準」とするのが相当というべきである。

第2 精神障害発症前6か月間に、その発症の原因となり得る急性の心理的負荷の業務に従事していた場合にだけ「業務上」と認定する現行判断指針の判断要件を改定し、精神障害の発症・増悪前1年間に、精神障害の発症・増悪の原因となり得る慢性及び急性の心理的負荷の認められる業務に従事していた場合には、「業務上」と認定できる判断要件とすること

 現行判断指針は、精神障害の発症につき、発症前6か月間に、被災者が「別表1]の職場の心理負荷評価表の日常の労働生活でまれにしか遭遇しない非日常的な事件的出来事に遭遇し、しかもその事件的出来事による心理的負荷の強度が、指針の修正する視点で評価して、IIないしIIIと評価され、かつ総合評価で「強」と評価されない限り「業務上」とは認定されないとしている。

 そして現行判断指針は、その例外的場合として、慢性的な心理的負荷につき、

(1) 「業務上の傷病により 6か月を超えて療養中に発病した精神障害」については「病状が急変し極度の苦痛をともなった場合など」「生死にかかわ」りその「心理的負荷が極度のもの」、

(2) 「極度の長時間労働」、「例えば数週間にわたり生理的に必要な最小限度の睡眠時間を確保できないほどの長時間労働により、心身の極度の疲弊、消耗を来し、それ事態がうつ病の発症のおそれのあるもの」、

に限り、精神障害発症の原因となり得る心理的負荷となるとしている。

 しかし、前記のとおり、今日の精神医学では、精神障害は、事件的出来事(ライフイベント)による「急性の心理的負荷」よりも、むしろ長期間の日常生活において生ずる「慢性の心理的負荷」が精神障害の発症・増悪に作用しているとされており、しかも、「慢性の心理的負荷」が原因となって発症する精神障害は、現行判断指針がその例外として認めている「業務上の傷病により6か月を超えて療養中に発病した精神障害」及び「極度の長時間労働」による精神障害に限定し、しかも「生死にかかわ」り、その「心理的負荷が極度」の長期入院でなければならず、「数週間にわたり生理的に必要な最小限度の睡眠時間を確保でき」ず、「心身の極度の疲弊、消耗をし」た長時間労働でなければ精神障害発症の原因となり得る心理的負荷とはならないとする医学上の根拠は全くないというべきである。

 そこで、この根本問題を解決し、被災者が精神障害を発症・増悪させる前に従事していた業務において遭遇した「慢性及び急性の心理的負荷」と、当該精神障害の発症・増悪及びその精神障害による自殺との間に相当因果関係が認められれば、「業務上」の疾病及び「業務上」の死亡と認定するため、現行判断指針の判断要件を改定し、下記の3つの要件に該当する精神精神障害及びその精神障害による自殺は、労働基準法施行規則別表第1の2の第9号に該当する『業務上の疾病もしくは死亡として取り扱うことするのが相当というべきである。

(1) 被災者に個体側原因(既往歴、社会適応状況、アルコール等依存状況、性格傾向)があり、これが原因となって精神障害を発病、増悪又は自殺させた場合、被災者の個体側原因が、当該業務に従事する以前に、確たる因子がなくても自然経過により精神障害を発病又は増悪させる寸前にまで進行していたとは認められないこと。

(2) 被災者が従事した当該業務による慢性及び急性の心理的負荷が、同人の個体側原因をその自然経過を超えて、精神障害を発病、増悪又は自殺させる要因となり得るものと認められること。

(3) 被災者の従事した当該業務以外に、同人の個体側原因をその自然経過を超えて、精神障害を発病、増悪又は自殺させる原因となる確たる因子が認められないこと。

 この場合、急性の心理的負荷のみならず慢性の心理的負荷を対象とし、かつ発症後業務に従事したことによる精神障害の増悪の原因となり得る心理的負荷をも対象とする関係上、対象とする心理的負荷は、精神障害を発症・増悪する前1年間とするのが相当というべきである(「精神障害と労災研究会」(代表:精神科医天笠崇)の「平成17年度研究報告書」参照)。

第3 業務による精神障害を発症・増悪し得る心理的負荷の評価方法につき、現行判断指針の[別表1]の職場における心理的負荷表による個別的出来事毎の当てはめにより、総合評価で「強」と認定出来なければ精神障害発症の原因となり得る心理的負荷とは認められないとする心理的負荷の強度の評価方法を改定し、個別事案毎に、被災者が精神障害を発症・増悪させる前1年間に遭遇した慢性及び急性の心理的負荷を総合し、被災者の置かれた立場や状況を十分斟酌し、その全体の心理的負荷が、経験則上、被災者と同種労働者の中で、その性格傾向が最も脆弱な者を基準して評価し、精神障害の発症・増悪の原因となり得る心理的負荷と認定できるか否かを認定する評価方法を採用すること

1 判断指針の問題点

 現行判断指針は、業務による精神障害を発症し得る心理的負荷の評価方法につき、(1)まず、[別表1]の心理的負荷評価表の(1)により、被災者が精神障害発症前に遭遇した個々の事件的出来事が、同表のいずれの出来事に該当するかの当てはめを行ってそれが同表の平均的心理的負荷の強度が、I、II、IIIいずれかを認定し、(2)つぎに、同表の(2)の「心理的負荷を修正する視点」で検討して、その強度がI、II、IIIのどの強度かを認定し、(3)そして(3)の「出来事後の状況が持続する程度を検討する視点」欄記載の視点から「出来事に伴う変化等はその後どの程度持続、拡大あるいは改善したか」について総合評価するとし、その総合評価で、出来事が下記ア及びイの場合だけ、精神障害の発症の原因となり得る心理的負荷である「強」と認定し、そうでない場合は「強」と認定しないという評価方法を採用している。

ア 上記(2)の評価でIIIと評価され、かつ上記(3)の評価で「相当程度過重(同種労働者と比較して業務内容が困難で、業務量も過大であると認められる状態)であると認められる場合

イ 上記(2)の評価でIIと評価され、かつ上記(3)の評価で「特に過重(同種労働者と比較して業務内容が困難で、恒常的な長時間労働が認められ、かつ過大な責任の発生・支援・協力の欠如等特に困難な状況が認められる状態)であると認められる場合

 しかも、現行判断指針は、被災者が遭遇した出来事が複数あっても、これら複数の出来事を個別に評価し、複数の出来事による心理的負荷を総合して全体として精神障害発症の原因となり得る心理的負荷が否かの評価方法を採用していいない。

 しかし、この平均人基準説を採る現行判断指針による心理的負荷の強度の評価方法は、トヨタ自動車事件・名古屋高裁判決が判示しているとおり、「判断指針は、現在の医学知見に沿って作成されたもので、一定の合理性があることは認められるものの、当てはめや評価にあたって幅のある判断を加えて行うものであるところ、当該労働者が置かれた具体的な立場や状況などを充分斟酌して適正に心理的負荷の強度を評価するに足りるだけの明確な基準になっているとするには、未だ十分とはいえ」ないというべきであり、現行判断指針の[別表1]による当てはめにより「強」と認定されない限り、精神障害発症の原因となり得る心理的負荷とは認められないとすることは、極めて不相当というべきである。

2 九州カネライト事件・福岡高裁平成19年5月7日判決

 九州カネライト事件・福岡高裁判決は、長年鐘化工業(株)に勤務し、食品関係の設備設計業務に従事し、機械のメンテナンス業務に従事したことのなかった兵庫県内に家族と居住していた被災者(満48歳)が、平成11年8月2日付で鐘化工業(株)の子会社である福岡県築後市所在の発泡ポリエスチレンを素材としたボード、建材及び畳芯の製造・加工・販売を事業とする九州カネライト(株)へ出向を命じられ、同年12月末に退職予定の設備係長一人の同社設備係に配属され、会社から自転車で10分弱の距離にある会社借り上げのワンルームマンションに居住して、同係長から設備係の業務の引継を受けていたところ、同年10月下旬頃から11月頃にかけて「適応障害」または「うつ病」を発症し、同年12月15日、自殺した事案につき、八女労基署長の遺族補償等不支給処分の取消を命じた一審判決を認め、行政機関の控訴を棄却した。

 この事案につき、厚生労働省は、「現在の精神医学のレベルにおいて、個体側の脆弱性を抽出し、客観的に測定するのは困難であり、平均的な労働者の受け止め方を基準として、出来事自体の有する精神障害を招く危険性を判断すべきで、ライフイベント法等に基づいた判断指針は合理性がある」と主張した。そして、本件で問題となる出来事は、「出向した」と「仕事内容に変化があった」の二つであるとし、「出向があった」は、その平均強度は「II」であり、同人の出向は「未知の分野への職種変換を伴うものでもなく、宿舎の決定においても本人の希望が尊重されており」、「設備係長からの引き継ぎを終えた後は設備課長への昇進が予定されていた」ものであり、「不利益な取り扱い」ではないから、修正する視点により平均強度「II」は修正されず、総合評価で被災者が精神障害を発症し得る心理的負荷である「強」とは評価されない旨主張した。

 また、「仕事内容に大きな変化があった」出来事は、[別表1」によりその平均強度は「II」であり、被災者の「本件出向後の業務内容も特に過大、困難なものであったとはいえなかった」から、これを「III」に修正すべき理由はなく、出向後に従事した業務による心理的負荷は、同人の精神障害を発症させるおそれのある「強」と評価される心理的負荷であったとはいえない旨主張した。

 これに対し、福岡高裁判決は、「特に、心理的負荷の要因となる業務上の出来事が複数存在する場合には、各要因が相互に関連して一体となって精神障害の発症に寄与すると考えられるから、これらの出来事を総合的に判断し、精神障害を発症させるおそれのある強度のものであるかを具体的に総合判断するのが相当である」と判示した。そして、同判決の引用する一審判決が「心理的負荷の要因となる業務上の出来事が複数存在する場合においては、それらの要因は相互に関連し、一体となって精神障害の発症に寄与するものであるから、個々の出来事の心理的負荷ではなく、これらを総合的に判断して、精神障害を発症させるおそれのある強度のものであるかを検討する必要があ」り、また、労働者の経歴、職歴、職場における立場、性格等によって、心理的負荷の要因となり得る出来事等の受け止め方に差があることは明らかであるから、心理的負荷の強度を検討するにあたっては、当該労働者の経歴、職歴、職場における立場、性格等を考慮する必要があ」るとの判示を引用した。

 そして、福岡高裁判決の引用する一審判決は、被災者は「住み慣れた関西地方を離れ、単身赴任を余儀なくされたこと、担当業務も長年従事していた機械設備の設計管理業務から機械設備の保全業務に変わったこと、本件出向前には細分化されたグループでの専門的業務を担当していたのに対し、引き継ぎ終了後は一人でカネライトの機械設備の保全の全てを行うという広範な業務を担当する予定となっていたことが認められ、本件出向により、相当の心理的負荷を受けたといえる」と認定した。また、被災者は「本件出向前に従事していた機械設備の設計業務には、長い期間にわたる経験を持ち、ある程度の自信をもっていたにもかかわらず、本件出向後は、ほとんど未経験の分野である保全業務に従事することとなったと認められ、その業務は、被災者の手指の障害があることからも」被災者にとって「不安の大きい分野であったといえるから、業務それ自体から受ける心理的負荷も、従前の業務内容に比べ、大きかったといえる」とした。

 そして、「さらに被災者は、保全業務の引き継ぎと平行して、新規機械の導入や、ISO認証取得のための業務にも従事したことにより、保全業務の引き継ぎのみに集中できる状況になく、技術の習得も周囲の期待していたようには進まず、そのため」「9月につき46時間58分、10月につき76時間38分、11月につき88時間20分」、「会社に残って引継ぎ内容の確認、資料作成等を行った」が、被災者が「本件出向前にほとんど時間外労働をしていなかったことに照らせば、その心理的負荷は大きかった」と認定し、被災者は「鐘化工業に入社して以来、出向の経験も転勤の経験もなく」、「業務内容の大きな変更も本件出向までなかったこと、被災者は真面目で内向的であり、仕事は自分で抱え込む性格であったこと、本件出向前にはほとんど時間外労働はなかったことが認められ」、「以上の被災者の経歴及び性格を前提とすれば」、「本件出向後、短期間の間に複数の心理的負荷の要因あったことを含めて、被災者が受けた業務による心理的負荷を総合的に判断すれば、業務による心理的負荷は、被災者と同種労働者にとって精神障害を発症させるおそれのある心理的負荷であったといえる」と判示しているところである。

 この高裁判決は、この事案において、精神障害発症前に、被災者らは出向という出来事による急性の心理的負荷、出向後カネライトで従事した係長から引継ぎを受けていた機械の保全業務による慢性の心理的負荷、引継ぎの保全業務と平行して従事した新機械導入やISO認証取得のために従事した業務により引き継ぎ業務ができず、そのため時間外労働を行ったことによる慢性の心理的負荷につき、これらの心理的負荷を総合し、これら複数の心理的負荷が全体として精神障害発症の原因となり得る心理的負荷と認定したものである。

 厚生労働省は、上告受理申立をせず、確定した。

3 ストレスの相乗効果の評価

 前記のとおり、九州カネライト事件・福岡高裁判決は、「心理的負荷の要因となる業務上の出来事が複数存在する場合には、各要因が相互に関連して一体となって精神障害の発症に寄与すると考えられるから、これらの出来事を総合的に判断し、精神障害を発症させるおそれのある強度のものであるかを具体的かつ総合的に判断するのが相当である」と判示している。同旨の裁判例は、トヨタ自動車事件・名古屋高裁判決、中部電力事件・名古屋高裁判決、日本ヘルス工業事件・大阪地裁判決、小田急レストランシステム事件・東京地裁平成21年5月20日判決など多数ある。

 これに対し、判断指針は、「出来事」(=災害)中心主義であり、強度Iの出来事がいくつあっても心理的負荷の強度がIIにはならず、強度IIがいくつあっても強度IIIにはならない。この点につき、九州カネライト事件・福岡高裁判決は、「基準に対する当てはめや評価に当たっては、判断者の裁量の幅が広いこと、また、各出来事に対する心理的負荷の判定を基礎としており、各出来事相互間の関係、相乗効果等を評価する視点が十分でないことからすれば、この基準のみをもって、精神障害の業務起因性が判断されるべきものとはいえ」ないと批判している。九州テン事件・福岡地裁平成19年6月27日判決(労働判例944号)も同旨である。

 この確定した司法判断に照らせば、精神障害発症・増悪の原因となり得る心理的負荷の強度の評価方法は、現行判断指針の[別表1]によるのは相当ではなく、これを改定し、事案毎に、当該労働者が置かれた立場や状況を十分斟酌して、発症・増悪前おおむね1年間に従事していた業務による慢性及び急性の心理的負荷を対象とし、この間に被災労働者が業務により遭遇した「慢性及び急性の心理的負荷」の全てを総合し、被災者の置かれた立場や状況を十分斟酌し、その全体の心理的負荷が、経験則上、被災者と同種労働者(職種、職場における地位や年齢、経験等が類似する者)の中でその性格傾向が最も脆弱である者(ただし、被災者の性格傾向が同種労働者の性格傾向として通常想定される者)を基準にして認定する方法を採用するのが相当というべきである。現行判断指針の[別表1]の職場における心理的負荷評価表は、この精神障害発症・増悪の原因となり得る心理的負荷の評価方法の一資料となり得るが、この認定の評価方法とはなり得ないというべきである。

 なお、この認定において、トヨタ自動車事件・名古屋地裁判決が判示しているとおり、「被災労働者の性格傾向が同種労者の性格傾向の多さとして通常想定される範囲を外れるものでない限り、当該被災労働者を基準として」評価するのが相当というべきである。

第4 長時間労働による慢性の心理的負荷による精神障害の発症につき、現行判断指針の「極度の長時間労働、例えば数週間にわたり生理的に必要最小限度の睡眠時間を確保できないなどの長時間労働により、心身の極度の疲弊、消耗を来し」た場合にだけに限定して精神障害発症の原因となり得る心理的負荷と認める現行判断指針を改定し、1週間当たり40時間を超えて労働した時間外労働時間が、発症前1か月当たり100時間、または発症前2か月ないし6か月間にわたり1か月当たりおおむね80時間を超える時間外労働に従事していた場合には、この長時間労働単独で精神障害発症の原因となり得る心理的負荷と認めるものとすること

 現行判断指針は、精神障害発症の原因となり得る心理的負荷につき、事件的出来事による急性の心理的負荷を対象とし、慢性の心理的負荷をその対象としていないが、その例外として、指針[別表1]の(3)の業務による心理的負荷の強度を「強」とする特別の出来事として、「極度の長時間労働、例えば数週間にわたり生理的に必要最小限度の睡眠時間を確保できないなどの長時間労働により、心身の極度の疲弊、消耗を来し、それ自体がうつ病等の発病原因と認められるもの」については、[別表1]の心理的負荷評価方法により「強」と認められなくとも、心理的負荷の強度を「強」とすることができるとし、この「極度の長時間労働」による慢性の心理的負荷に限り、精神障害発症の原因となり得る心理的負荷となることを認めている。

 しかし、2001年12月12日に制定された「脳血管疾患及び虚血性心疾患等(負傷に起因するものを除く。)の認定基準」(基発第1063号)は、脳・心臓疾患発症の原因となり得る過重負荷として、1週間当たり40時間を超えて労働した時間外労働時間が、発症前1か月当たり100時間、又は発症前2か月ないし6か月間にわたり1か月当たりおおむね80時間を超える時間外労働に従事していた場合には、その心理的負荷単独で脳・心臓疾患発症の原因となり得る過重負荷と認めているところである。それは、このような長時間労働は、労働の質的過重性を度外視しても、それ単独で人間が生理的に必要とする睡眠時間を奪い、その負荷が長期間にわたり作用し疲労の蓄積が生じ、これが血管病変等をその自然経過を著しく超えて増悪させ、脳・心臓疾患を発症させる蓋然性が高いとされているからである。このことは、精神障害の発症についても同様であり、このような長時間労働は、労働の質的過重性を度外視しても、人間が生理的に必要とする睡眠時間を奪い、その負荷が長期間にわたり作用し、疲労の蓄積が生じ、これが心理的負荷を増大させ、精神障害を発症させる蓋然性が高いというべきである。そして、現に、日本産業精神保健学会理事長高田勗「平成15年度委託研究報告書I精神疾患発症と長時間残業との因果関係に関する研究」(主任研究者黒木宣夫東邦大学佐倉病院精神医学研究室。2004年3月)の報告書は、その研究により、「長時間残業による睡眠不足が精神疾患発症に関連があることは疑う余地もなく、特に長時間残業が月間100時間を超えるとそれ以下の長時間残業よりも精神疾患発症が早まるとの結論が得られた」と報告しているところである。

 したがって、極度の長時間労働にる慢性の心理的負荷に限り、精神障害発症の原因となり得る心理的負荷と認めるとの現行判断指針を改定し、過労性脳・心臓疾患の認定基準と同様、1週間当たり40時間を超えて労働した時間外労働時間が、発症前1か月当たり100時間、または発症前2か月ないし6か月間にわたり1か月当たりおおむね80時間を超える時間外労働に従事していた場合には、その心理的負荷単独で、精神障害発症の原因となり得る心理的負荷と認めるものとするのが相当というべきである。

以上


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